「あの人が辞めたら、この業務は止まります」

経営者がこう口にするとき、たいてい相手は決まっています。社歴20年、30年のベテランです。見積の勘所を押さえている人。工場の段取りを一人で組んでいる人。得意先ごとの機微を全部覚えている人。

その人の頭の中にあるものを、暗黙知と呼びます。マニュアルに書かれていない、しかし業務の質を決めている知識のことです。

これまで、暗黙知の承継には「隣について覚える」という方法しかなく、一人前になるまでに数年かかるうえ、そもそもその数年を一緒に過ごしてくれる若手を採用すること自体が、いまの地方ではきわめて難しくなっています。

いま、別の道が現実的になりつつあります。ベテランの頭の中にあるものをいったん文章にしてAIに渡し、新しく入った人はそのAIに聞きながら仕事を覚えていく、という形です。完全な代替ではありません。ただ、これまで数年かかっていた立ち上がりが数か月まで縮む可能性は十分にあります。

この記事では、その前提になる書き出しの手順を、実務でやっている形のまま書いてみます。

目次

  1. 暗黙知は三種類に分かれる
  2. 本人に書かせてはいけない
  3. 書き出しの五つのステップ
  4. 聞き取りで使う質問
  5. 書けなかった部分の扱い方
  6. 本人に、どう話を通すか
  7. 北海道では、時間切れが近い
  8. 最後に

1. 暗黙知は三種類に分かれる

ひとくちに暗黙知と言っても、中身は均質ではありません。実務では三つに分けると扱いやすくなります。

手続き的な暗黙知。どういう順番でやるか、という知識です。書類の処理順、システムへの入力の段取り、確認の抜け漏れを防ぐために本人が勝手に挟んでいるチェック。ここは最も書きやすい部類にあたります。本人に普段どおり手を動かしてもらいながら、その横で画面と手順を記録していけば、半日もあればひととおりの形になります。

判断的な暗黙知。どういうときに、どう決めるか。この客には値引きしない。この品番は在庫を厚めに持つ。この天候なら明日の施工は止める。どれも、どこにも書かれていません。ここが本丸です。そのうえ、最も書き出されていない領域でもあります。本人に尋ねても、たいていは少し考えてから「まあ、経験ですね」という答えが返ってくるだけで、そこから先が出てきません。

関係的な暗黙知。誰に、どう話すか。あの担当者は電話より先にメールを入れたほうがいい。この会社は部長を飛ばすと機嫌を損ねる。ここはAIに渡しません。人に引き継ぐべき情報です。ただし、書き残しておく価値は十分にあります。

AI活用の文脈で扱うのは、前の二つです。効果が大きいのは、圧倒的に判断のほうです。

2. 本人に書かせてはいけない

手順の前に、ひとつだけ強く言っておきたいことがあります。

ベテラン本人に「マニュアルを書いてください」と頼んでも、まず出てきません。

意地悪をしているわけではありません。構造的に無理なのです。理由は三つ。

まず、本人にとって当たり前すぎて、書くべきこととして認識されない。息の吸い方を説明してくださいと言われているようなものです。無理があります。

ふたつ、本業が忙しい。長年の経験を抱えている人は、だいたいその会社で最も忙しい人です。

みっつ、書くことに抵抗がある場合がある。自分の価値がその知識にあると感じていれば、無意識のうちにブレーキがかかります。責められることではありません。

だから、書くのは別の人がやります。ベテランは話すだけ。聞き手が話を構造化して文章にまとめ、本人に目を通してもらって直す。この分担に切り替えた途端、それまで何年も動かなかった話が驚くほどスムーズに進むことがあります。

聞き手は、その業務を知らない人のほうが向いています。業務を知っている人が聞き役に回ると、相手が説明を省いた部分を自分の知識で無意識に埋めてしまい、肝心の空白が空白のまま残らないからです。

3. 書き出しの五つのステップ

実際の手順です。1業務あたり、合計で6〜10時間程度を見ておきます。

最初の2時間は、実際の仕事を横で見ます。質問はしません。何をどの順でやっているか、どこで手が止まるか、何を見に行くか。口を挟みたくなりますが、この段階では我慢して、見えたことをメモに書き取ることだけに専念します。手が止まった瞬間が、判断の発生した瞬間です。印をつけます。

次の2時間で、印をつけた箇所に戻って一つずつ聞きます。「ここで少し止まっていましたが、何を考えていましたか」。これだけです。この聞き方が肝心で、「どうやって判断していますか」と抽象的に尋ねると「経験です」で終わってしまいますが、具体的な場面を指して聞けば具体的な答えが返ってきます。

さらに2時間で、聞き取った判断基準を過去の案件に当てはめてみます。「いま伺ったルールで処理すると、去年のあの案件はこういう扱いになるはずですが、実際のところはどうでしたか」と確認していく工程です。ここで必ず例外が出ます。例外こそが、本当の判断基準です。

1時間かけて文章にして、本人に読んでもらいます。違和感のある箇所に線を引いてもらう。「だいたい合ってるけど、ここは違う」が出てくれば成功です。この段階で全面的に否定されることは、まずありません。

最後の2時間が検証です。文章だけを見て、業務を知らない人が同じ作業をたどれるか。詰まった箇所が、書き漏れた暗黙知です。

この五つで、だいたい8割は文章になります。残り2割は、第5章で扱います。

4. 聞き取りで使う質問

聞き役が使える質問を並べておきます。順番に使うというより、手札として持っておくものです。

事実を引き出すなら、この作業は週に何回くらい発生しますか、1回あたりだいたい何分かかりますか、いちばん時間がかかるのはどの部分ですか、何を見ながらやっていますか。

判断を引き出すなら、ここで少し止まっていましたが何を考えていましたか、もし新人がこれをやったらどこで間違えそうですか、この項目を見落とすと何が起きますか、「これは自分で判断してはいけない」と思う線はどこですか。

例外を引き出すなら、直近でいつもと違う処理をしたのはどんなときですか、困ったなと思った案件をひとつ教えてください、ルールどおりにやると不都合になるのはどんな場合ですか。

背景を引き出すなら、このやり方はいつ頃から続いていますか、始めた理由を聞いたことはありますか、これを変えたら誰が困りますか。

最後の四つには、言語化とは別の目的があります。理由が失われた手順を見つけるためです。ここで「分かりません」が返ってきた手順は、AIに渡す前にやめられないかを検討する候補になります。

聞き方のコツをひとつ。「なぜ」を連続で使わないことです。「なぜそうするんですか」を3回も続けると、相手にとっては自分のやり方を正当化させられる尋問の時間になってしまい、そこから先は当たり障りのない答えしか返ってこなくなります。

5. 書けなかった部分の扱い方

全部は書けません。そこは前提として受け入れたほうがいい。

書けなかった部分は、三通りに振り分けます。

ひとつは、人が判断する領域として明示的に残す。「この条件に該当する場合は、◯◯さんに確認する」と指示書に書いておく。AIを入れても、この分岐のところで処理は人に戻ってきます。敗北ではありません。どこまでを機械に任せ、どこから先を人が引き取るかを決めた、という意味での設計です。

ふたつめは、実例を集めて判断の代わりにする。ルールとして書けなくても、過去の判断例を50件並べておけばAIはそこからパターンを拾えます。「こういう場合はこうした」という事例の集合で、ルールの代わりを務めさせるという方法です。言葉にしにくい判断ほど、この形が向いています。

みっつめは、そもそも判断する必要があるのかを問い直す。聞き取りを進めていると、「なぜこの判断が必要なのか」という前提そのものが揺らぐ瞬間があります。昔の設備や取引条件に合わせて作られた判断が、その制約が消えたあとも手順として残り続けているケースです。この場合は、書き出すのではなく廃止が正解になります。

実感として、書けなかった2割のうち半分は三つめでした。本当に残すべき判断は、全体の1割程度です。

どこまで書けば十分か。目安は二つ。その業務の8割が文章だけで再現できる状態であること。そして、ベテランが1週間休んでも業務が止まらないこと。後者は試してみるのが早い。計画的に休んでもらい、何が起きるかを見ます。止まった箇所が、書き漏れです。

書き終えたあとの話も、少しだけ。せっかく作った文書が1年で使えなくなることがあります。取引先が変わった、システムが入れ替わった、基準が改定された。そうやって中身が現実からずれていくのに、誰も直さないまま放置される。防ぐには、置き場所を1か所にすることと、見直しの時期を決めておくこと。年1回でいい。繁忙期を外して、カレンダーに入れておく。「気づいたときに直す」は、気づかないので直りません。

さらに言えば、AIに渡して実際に使っている文書は腐りにくいという性質があります。使っていれば、ずれたときにすぐ分かるからです。読まれないマニュアルは腐りますが、毎日動いている指示書は腐りません。これは、AIに渡すことの副次的な利点だと思っています。

6. 本人に、どう話を通すか

技術的な手順より難しいのが、この部分かもしれません。

「あなたの知識を文章にして、AIに渡したい」という説明は、受け取り方によっては「あなたを置き換えたい」に聞こえます。実際にそう受け取られて、協力が得られなくなった例を見たことがあります。

伝え方として機能するのは、次の三点です。

第一に、目的を引き継ぎに置く。AIの話を前面に出さず、「この業務が◯◯さんに集中していて、会社として危ない」という事実から入る。これは本当のことなので、嘘をつく必要がありません。

ふたつ、本人の負担を減らすことを先に示す。「毎回聞かれるのが大変でしょう」。ベテランは、他部署からの問い合わせ対応に時間を取られていることが多い。そこが軽くなると分かれば、動機が生まれます。

みっつ、残る役割を明示する。書き出せるのは手続きと判断の一部までです。例外の最終判断、取引先との関係、新しい状況での勘所。これらは残ります。残るものを先に言葉にしておくと、話が通りやすい。

それでも抵抗がある場合は、急がないことです。無理に進めても、肝心の部分が出てきません。半年かけて、雑談の中で少しずつ聞き取るほうが結果的に早いこともあります。

7. 北海道では、時間切れが近い

道内でこの作業を急ぐべき理由が、数字にあります。

日本銀行札幌支店が2025年5月に公表したレポートによれば、北海道の人口は1997年の約570万人をピークに減少を続け、2050年には382.0万人まで落ちる見通しです。生産年齢人口に至っては、2050年に2010年の5割強まで減少すると推計されています。札幌市以外に限れば、人口減少が始まったのは1981年で、すでに40年以上続いています。

人口減少下で成長する北海道経済(日本銀行札幌支店、2025年5月28日)
https://www3.boj.or.jp/sapporo/kouhyo/kouhyofile/report202505.pdf

この数字が意味するのは、ベテランが抜けたあと、同じ水準の仕事をこなす人を採用し何年もかけて育てるという従来の選択肢そのものが、道内では事実上なくなりつつあるということです。

室蘭のある機械部品メーカーでは、見積を一人で30年担当してきた方の退職まで2年、という状況で相談がありました。後任の採用は3年続けて不調。やったのは、退職までの期間を使って見積の判断基準を聞き取り文章にする作業です。半年をかけて、図面を受け取ってから金額を出すまでに本人が無意識に通っていた判断を、80項目まで分解して書き出しました。結果として、AIに渡す以前に、その文書自体が後任の教育資料になっています。

北海道の中小企業にとって、暗黙知の書き出しは「AI活用の準備」という位置づけでは、たぶん弱い。事業を続けるための作業です。しかも期限があります。本人が在籍しているうちしかできません。

幸い、冬があります。繁忙期と閑散期がはっきり分かれている業種なら、閑散期の数か月を聞き取りに充てられる。道内企業の強みとして、この季節性は使えます。

8. 最後に

暗黙知の書き出しは、新しい話ではありません。技能承継として、何十年も言われ続けてきたことです。

変わったのは、書き起こしたものの使い道でした。これまでは、時間をかけて書いても誰にも読まれない分厚いマニュアルとして棚に収まるだけでした。いまは、書いたものをそのままAIに渡せば、その日から動きます。使われるから、更新もされる。

やり切った会社で起きることも書いておきます。まず、社長が怖がらなくなる。「あの人が辞めたらどうしよう」という漠然とした不安が、「この20項目が失われる」という具体的なリストに変わります。不安が具体になると、手が打てる。次に、本人が楽になる。長年ひとりで業務を抱えてきた人は、休むことにも辞めることにも罪悪感を持っていることが少なくありません。文書になった時点で、その重さが少しだけ軽くなります。

ベテランがまだ在籍しているなら、始める価値があります。AIを入れるかどうかは後で決めればいい。文章にしておけば、どちらに転んでも損はしません。

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